水沢競馬場への道

水沢競馬場までの道のりを阿弖流為像のある交差点からご紹介します。
水沢競馬開催時がどうなっているのか分かりませんが、この日は気味が悪くなるくらい道中は閑散としていました。
JRまたは新幹線を使って水沢競馬場へ行かれる方は水沢競馬場周辺ホテル旅館温泉のページをご覧ください。
この日は盛岡競馬場から国道4号線(奥州街道)を延々と南進して水沢競馬場へ行きました。いきなりですが阿弖流為像が建っている交差点です。住所は岩手県奥州市水沢区東大通り3丁目3-15付近です。
赤い線が盛岡競馬場から水沢競馬場へ向かう経路です。○で囲っている地点に阿弖流為の郷があり、□で囲っている場所が水沢競馬場です。
地図を見れば国道4号線(奥州街道)を使って水沢競馬場へ行く場合には国道397号線との交差点を左折して水沢競馬場へ向かうのが王道なのですが、管理人のカーナビの気まぐれで花園町という交差点を左折するよう指示されて、画像の巨大な土器っぽいオブジェに遭遇しました。
駄洒落ではありませんがドキッとしましたよ。
さて阿弖流為とは、説明するまでもありませんが、桓武天皇の時代に胆沢地方を統治していたとされる軍人であり最高責任者であります。
当時の日本は律令制のもと中央の権力者がその威光を全国に示そうといきり立っていた時期で、現代のアメ○カのように他国に因縁をふっかけては正義のための戦争とか何たらかんたら大義をかざし、朝廷軍が力ずくで他所の領地を制圧していました。
どどまることを知らない朝廷軍は遂に遠く東北の胆沢までやってきてこの地を支配しようと試みましたが、戦に長けた阿弖流為は朝廷軍を打ち破り侵攻を防ぎました。
しかし朝廷軍は坂上田村麻呂を征夷大将軍(諸説あるそうですが日本で最初の征夷大将軍といわれています)に任命し再び胆沢地方へ攻め入ります。いわゆる蝦夷征伐です。
この戦いは朝廷軍の勝利に終わり阿弖流為は母礼(モレ)とともに捕えられ平安京に連れて行かれます。そして坂上田村麻呂の懇願むなしく処刑されました。
古今東西歴史は勝者の都合の良いように編集されます。
何も悪い事はしていない胆沢地方は「蝦夷」と蔑まれ、坂上田村麻呂が善、阿弖流為が悪の構図で語られるのが通説となりました。
ショッキングですらある阿弖流為像。怒ってるんだか笑ってるんだか。
噂によれば目が光る細工が仕掛けてあるとか。子どもが見たらトラウマになりそう。
上の写真は阿弖流為の郷の看板と当時の住居のレプリカ。阿弖流為像とサイズのバランスが悪いですね。
上の地図に赤い線で引いた経路と実際通った経路は若干異なり、四叉路で進むべき道を間違えて少しだけ河川敷を走る事になりました。すると右側に馬が浮かんでいる姿が見えてきました。
近くで見ると看板から降りられなくなった馬に見えます。
河川敷道路を下ると水沢競馬の厩舎の敷地が広がっています。画像は佐々木由則厩舎です。馬のいない敷地とカラスが一羽とまっているのが非開催日らしい風景です。
到着。静まり返った一帯。場外馬券売り場でもウィンズなら競馬ファンっぽい人がウロウロしていてそれなりの賑わいを見せているものですが・・・。
シーン・・・。
北上川沿いの低地に隠れるように存在する水沢競馬場。
現地にいると、このやたら静かな競馬場の雰囲気は南関東の競馬場にもJRAの競馬場にもない独特の空気を感じます。
これは水沢にしかない何かがある。さっそく管理人は壁を調べてみた。
がんばろう東北。ようこそ水沢競馬場。とかかれている。役に立ちそうなものは特に見当たらない。